――凡此五者将莫不聞 知之者勝不知者不勝(おおよそこれらの事柄を、将たるものが知らないということはないだろうが、これらを理解している者は勝ち、理解していなければ勝てない) “孫子”計篇より 妙才暗躍 1 「わたしは、季衣のところに行ってくる!」 不機嫌そうに姉は吐き捨て、手早く寝台から身を起こした。脱ぎ散らかした衣服を身につけ、大股に部屋を出て行く。 「あ〜……見送りもできん」 「ふふっ……」 ぼやいた一刀の横に寝そべったまま、秋蘭は脇の卓から茶碗を取った。ぬるい湯を含むと、いくらか苦い味が口の中に広がる……先程まで味わっていた、一刀の精の味。 「……そこでくつろがれてもアレなんだけど、とりあえず、俺にも一杯くれる?」 「ん? あぁ、済まない、気が利かなくて」 姉妹がかりで搾ったので、一刀は眼に見えて憔悴しきっていた。億劫そうに身体を起こした一刀の手に、湯を満たした茶碗を渡してやると、それをゆっくり、だがひと息で干す。 「ふぅ……」 「お疲れだな、北郷殿」 笑いをこらえている表情で、秋蘭は茶碗を打ちあわせた。 先日まで、大陸の半ばを支配していた強国・魏。それを治める覇王こそが、秋蘭の愛してやまない華琳そのひとだった。しかし、惜しむらくも華琳は一刀に降伏し、魏は事実上滅亡。いまや、一刀の捕虜の身分となっている。 だが、その程度で華琳の性癖が大人しくなるはずもない。美少女好きで美女好きの華琳は、秋蘭や姉の春蘭(……や、他の女)たちに夜伽を命じていたのだが、ある夜気まぐれを起こしたのか、云い出した。 『……そうだ。今夜の伽は、アイツの精をより多く搾り取った方に命じることにしましょう』 というわけで、秋蘭は春蘭と連れ立って一刀を襲い、果てるまで搾り続けた。 「……まぁ、俺も気持ちよかったからいいけどさ」 話を聞いた大陸の王者は、やや複雑な表情で秋蘭を見つめた。華琳が惚れ込んで……もとい、気に入っている(いや、この表現でも華琳サマはお怒りになるかもしれない)御仁は、溜め息交じりで。 「なるべくなら、そーいうコトには巻き込まないでほしいんだけどな……」 その台詞に、秋蘭は真顔で、茶碗を干した。 「……北郷殿」 気になったことを、秋蘭は口にしてみる。 「もしや、我らでは満足できなかったのか?」 「ナニを今更」 「いや……姉者に挿入したとき、なにやら形容しがたい表情をされたのでな」 一刀の手が、止まった。 口唇での奉仕に興奮した春蘭は(秋蘭もだが)、本番を慎ましく求めてはみたのだが、一刀はとぼけた様子でそれを察しない。無論、脱いでしまってからはその気にはなったのだが……春蘭に挿入しようとしたとき、秋蘭は、一刀が、自嘲に近い笑みを口元に浮かべていたのに気づいてしまった。 自嘲、というよりは……後悔。 「……そうか?」 だが、一刀は相変わらず、どこかずれている表情を浮かべている。 戸口の外が気にはなったが、春蘭が出て行ったのだから、まだ(覗いていた)愛紗がいるということはあるまい。後片付けは侍女がしているようだし。秋蘭は茶碗を卓に戻すと、一刀の手からも取り上げ、その頭を胸に抱きこんだ。 「わぷっ……」 「……睦言とでも思って、話してくれてもいい。あなたを5番めに置いてもいいというのは、本心だ」 いちばん大切な華琳に、春蘭。腹心と頼む部下に、気のあう娘。……その次くらいに、秋蘭は一刀が気に入っている。自分よりやや年下の少年を抱きしめ、秋蘭はもう一度寝台に倒れた。 姉妹でさんざ搾り取ったおとこが、顔を上げる気配はない。 「……秋蘭も、春蘭も華琳も、殺さないと云ってある」 押し殺したような声が、胸に埋もれたままの顔から聞こえてくる。 「だが、誰かに喋ったら……俺は、自分が何をするか判らないからな」 王たるものの素質には、武技はない。純粋な武勇なぞ、配下の将軍に任せておけばいいことだ。現に、華琳も、ある程度の戦闘能力は備えているが、それは秋蘭、まして春蘭には遠く及ばない。……一刀よりはマシだろうが。 だが、秋蘭は今、一刀から恐怖を感じていた。腕の中にいる少年が、まるで血に餓えた獣のような、裂帛の気迫に包まれている。 「あぁ……」 言葉短く、秋蘭はうなずいた。 ややあって、一刀は顔を上げずに。 「……伯珪さんのことを、思い出して」 「公孫賛の……?」 亡き群雄の名を、口にした。 公孫賛、字を伯珪。幽州に割拠した武将だった。 騎兵を率いては河北に並ぶ者なしと称された勇将だったが、性格はいけ好かないと秋蘭は記憶している。たとえば部下か攻撃を進言しても、ひとりで突っ込ませて自分は何もしないような女だった。 ところが何があったのか、反董卓連合に参戦してきた彼女はいくらか丸くなっていて、連合の盟主・袁紹と衝突した華琳を仲裁したり、孤軍で虎牢関を攻めることになった一刀を救うべく奮戦したり……と、華琳をして「アレくらいなら、傍においてもよかったわね」と云わせる性格になっていた(らしい。直接会ったのは華琳だけだったので)。 しかし、華琳の欲望むなしく、幽州の覇権を狙う袁紹と戦い、すでに死亡している。その袁紹との抗争に勝利したのが、一刀躍進の原因だったのだが……。 「……俺は、伯珪さんを見捨てたんだ。伯珪さんが袁紹に攻められたとき、俺たちは……何もしなかった」 「何もできなかった、ではなくてか? 当時の貴公らに、公孫賛を救い袁紹を退けるだけの戦力があったとは……」 思えんが。秋蘭がそう口にするより早く、一刀は顔を上げた。 「できるかできないかなんて、どうでもよかったんだ。伯珪さんのために、何かできれば」 泣いていた。 「確かに、俺たちには袁紹と戦う戦力なんてなかった。愛紗も、朱里も、みんな……伯珪さんを助けには行けないって云ったよ。俺だってそれは判ってたから、動かなかった……動けなかったけど」 こらえるような表情をしても、一刀の涙は止まらなかった。秋蘭の肌を濡らし、寝台へとこぼれ落ちる。 「誰かを抱くたびに、思うんだ。伯珪さんと、深い仲だったら……結ばれていたら、俺はあの時どうしただろうって」 「……北郷殿」 「伯珪さんを抱いていたら……こんな後悔、しないで済んだんじゃないかって……」 秋蘭は、一刀をもう一度、抱きしめた。 「死んでいたかもな」 「うん……」 だが、きっと誰の制止をも振り切って出陣し、あるいは奇跡さえ起こしたかもしれない。あるいは公孫賛とふたり、笑って死んだのかも。 ……やっと、判った気がする。なぜこの漢が、華琳を助けるために戦ったのか。なぜ、華琳や自分たちを、捕虜と思えぬ歓待をするのか、してくれるのか。 魏が、負けるわけだ。秋蘭は思う。 「――さん……」 一刀が呟いたのは、聞き慣れぬ名。多分、公孫賛の真名なのだろう。 泣き疲れた一刀を起こさぬよう、秋蘭は寝台から身を起こした。 「……朝まで同衾してやるべきかもしれんが、さすがに華琳さまを放ってはおけんのでな」 脱いでおいた衣服を身につけながら、秋蘭は云い訳を口にした。 2 ――孫子の前に兵書なく、孫子の後に兵書なし。 人類史上“唯一”の兵法書たる“孫子”の、類まれなまでの戦略思想は歴史的にも評価が高い。ナポレオンや東郷平八郎などはこの書を愛読し、プロイセンのヴィルヘルム2世は『20年前に、この本を読んでおればなぁ……』と嘆息したという。ロシア極東軍屈指の歴史オタクと称されたフーバル・フースキー少佐は“孫子”を極めて高く評価しているひとりで『もし僕が、神あるいはそれに類する立場にあったのなら、己の身を案じて、信徒に焚書を命じたはずだ』とまで絶賛している。 そんな“孫子”だが、その著者が定かではないことはあまり知られていない。 “孫子”の著者は、一般には孫武とされている。しかし、その存在は長く疑問視されていた。というのも、孫武に関する記述は司馬遷の“史記”に、それもごくわずかしか存在せず、稀代の兵書の著者の名があろうことが“武”であったことから、孫武そのひとの存在を否定し、子孫の孫ピン(※1)が本当の著者だ、いや伍子胥だ、范蠡だ、挙句の果てには曹操こそが“孫子”の著者だ、などとする説が出ていた。いちおうは1972年に『孫ピンではない』という結論は出ているものの、孫武についてはいまだ定説が得られていない。 内容についても、曹操以前の“孫子”はほとんど残っておらず(無理もない。孫武の手によるものとした場合、孔子とほぼ同時代になる)、曹操が注釈を施した“魏武注孫子”しか、ほぼ現存していないのが実情だった。もちろん、ナポレオンは曹操から1600年はのちの時代の者であり、畢竟彼(ら)が手にしたのも、その“孫子”ということになる。 この辺りの事情について、件のフースキー少佐は、興味深い記述をしている。 『“孫子”の著者が誰かという疑問は、もの凄く単純に応えられる。孫子だ。……そこで飛蝗石を握ったひと、まず手を開いてほしい。孫子とは、云うまでもなく個人名ではない。この“子”は“先生”の意なので、要するに孫先生だ。じゃぁその孫先生とは誰なのか? それは、多分考える必要はない。それが孫武であれ孫ピンであれ、兵法の極意を受け継ぐ者こそが孫子である。兵聖の称号。それこそが孫子だと僕は思う。……それならば、曹操やナポレオンが孫子であっても、一向にかまわないのではなかろうか』(F・フースキー『世界奇人変人列伝』より) 「くちゅんっ」 ……えらく可愛らしいくしゃみを聞いて、朱里は“孫子”の書簡から顔を上げた。卓の向かいに座っている華琳サマは、ばつの悪そうな表情で朱里をにらんでいて、両隣で卓を囲んでいる、桂花は見ていないふりをして書簡から顔を上げず、秋蘭は笑いを噛み殺している表情になっている。 「何かしら? 朱里」 「はうぁっ!? いえ、何も……」 はわはわ云ーながら、朱里は視線を書簡に落とした。身長ではほぼ同じだが、気迫と戦闘力には格差がある。でも、と下げた視線を華琳に戻して、朱里は小声で。 「……ていうか、真名では呼ばないでほしいです」 「あら、いけなかったかしら? 朱里」 からかうような口調で、華琳は繰り返した。 真名というものは心許した相手にしか呼ばせないものなので、一刀の軍師たる朱里としては、一刀の捕虜である華琳に真名で呼ばれるのには抵抗があったが、もと覇王サマはその辺りをまるで考慮してくれない。 「はぁ……」 北郷軍の軍師として、政戦両略を取り仕切っている朱里だが、政務の合間にお茶していたところ、華琳に捕まり“孫子”の注釈を手伝わされている。知識欲豊富な朱里にしても、高名な兵法書について論を戦わせるのは嫌いではなく、つきあってはいるのだが。 「諦めよ、諸葛殿。華琳さまは、気に入った相手には容赦をなさらん」 「むしろ光栄に思うのね、華琳さまから真名を呼ばれるのだから」 と、左右から秋蘭と桂花が止めを刺す。はわわ軍師は溜め息ついて、表情を曇らせた。場合によっては、北郷軍が魏に敗れ、朱里も華琳の下についていたかもしれない。そう思うと……かなり、やだ。一刀以外の主人を知らない朱里にしてみれば、こういう意地悪な主に耐えられるかどうか。 思えば、一刀は華琳にないものを全て持っている。優しさと、身長と、チ○ポだが。 「最後以外は大きなお世話よ!」 金髪縦ロールを振り乱して、曹操サマは大声を上げられた。傍らに侍る秋蘭は、主の霍乱に驚いて。 「華琳さま? 突然、ナニを……?」 「例のロシア産雪男が命冥加な発言をしでかしたのよ! 誰がサドでチビよ、まったく!」 「否定できない気もするんですけど……割と重要なオハナシしますね? その雪男さん、どうしても一本に一度はこーいう真似をしでかさないと気が済まないのでしょうか」 「ヒッチコックを尊敬してるらしいわ。まぁ、聞こえなかったことにしておきましょう。桂花、お茶」 「はい♪」 朱里の指摘に、我に返った華琳は桂花に声をかけた。桂花はいそいそと、嬉しそうにお茶を口に含むと、華琳と唇を重ねる。秋蘭は慣れているので気にも留めない(やや悔しそうではあったが)ものの、ノンケの朱里はそうも行かなかった。突然の接吻に、椅子から腰を浮かせて悲鳴を上げる。 「はわ……はぅぁーっ!?」 「んぶっ……」 それに驚いた桂花が唇を離してしまい、口の端からお茶がこぼれる。 「もぅ、何よ朱里……そんな悲鳴を」 「はうぅ……いえ、驚いてしまったので……」 「桂花、拭きなさい」 「はい……♪」 華琳の顔を濡らすお茶を舌先で舐り、桂花は幸せそうに表情を綻ばせていた。こっそり朱里に親指を立ててみせる。はわはわ怯えている朱里の、隣で秋蘭が青筋立てているのだが、華琳以外誰も気にしていなかった。 「はぁ……♪ 華琳さま、綺麗になりました」 「桂花、あなたも気をつけなさい」 「はい。もうひと口、いかがでしょうか?」 桂花のねだるような視線に、だが華琳は視線を朱里に向ける。はわわ軍師がぶんぶんぶんぶん激しく頭を振りまくっているので、華琳は残念そうに。 「まぁ、いいわ。続きを読みましょう」 「はい……」 そりゃぁもォ残念そうに、桂花は引き下がった。そこでようやく秋蘭も、落ちついた表情に戻る。 「はぅぁ……心臓に悪いですー……」 「そういえば、朱里?」 「ですから、真名では……何でしょうか?」 云ってもムダだと半ば諦めて、朱里はずれた帽子の角度を直す。華琳は、面白くなさそうな表情で。 「北郷は、袁紹を探しているの?」 「ふぇ……?」 云った方も云われた方も聞いているふたりも、へんな反応をした。朱里と桂花は「ナニを今更……?」という表情を浮かべ、華琳は朱里がそういう表情をしたのがよく判らず、唯一秋蘭が視線を細める。 先日の一刀との会話を、閨で責められた秋蘭はついつい口にしてしまい、華琳の耳に入れてしまった。その場では「……ふん」という反応だった華琳だが、どうにも一刀のこととなると、このもと覇王は挙動不審になる。 「違うの?」 「はぁ……。すでに袁家は滅亡し、その軍勢は北郷軍に編入しましたので、積極的には気にかけていませんよ?」 「でも、公孫賛の仇でしょう? 袁紹は」 「ええと……」 いくらか云いにくそうに、朱里は視線を下げた。 「当時の我が軍では伯珪さんの援軍には行けないと説明して、その場は納得いただけましたけど……伯珪さんが亡くなられた時は、ご主人様は、一日お部屋に閉じこもっておいででした」 「……それで?」 「今では、伯珪さんのことも袁紹さんのことも、口になさいませんね、ご主人様は」 吹っ切れたのか、割り切ったのか。朱里は、やや硬い表情でそう云った。 「……そう」 興味をなくした表情で、華琳は視線を書簡に戻す。 半時もした頃に、めがねの侍女(一刀は“メイド”と呼んでいた)が呼びに来たため、朱里は政務に戻った。それを見送った秋蘭は、真剣な眼差しを華琳に向ける。 「華琳さま」 「何?」 あのメイド服やら云うものを、秋蘭や春蘭に着せてみたいとこっそり思っている華琳は、名残惜しそうに戸口を眺めている。秋蘭は、そんな主君に視線を固定したまま。 「秋蘭無くとも天下は成り立ちましょうが、華琳さま無くしては天下は成り立ちません。どうかご自愛を」(※2) 「……わたしに意見するつもり?」 やや視線を細くして、華琳は秋蘭を見た。普段ならいささかは恐縮する秋蘭だが、睦言(それも、男との)を話させられたため、さすがにひるまない。また、内容的にも冗談で済まされる話ではないのだ。 「北郷殿は信頼に値する御仁ですが、男の心は変わりやすいもの。華琳さまが処刑されれば、我らも生きてはおれませぬ。お供することは厭いませぬが……可能な限り、華琳さまをお守りするのが我らの務めかと」 「見上げた忠勤ね。……ま、いいわ。今日のところは、聞いておいてあげる」 「御意」 いつぞや、酒家で交わした会話を思い出す。主に不満を云うつもりはないが……時折、忠言でも容れなくなるのが、華琳のやや難のあるところだった。それこそ、眼の前にある“孫子”の言葉が眼に入る。 ――将聴吾計用之必勝留之 将不聴吾計用之必敗去之(我が進言を容れるならその国は勝つのだから、私は留まる。だが、我が策を容れないならその国は負けるだろうから、留まってなどやらない) “孫子”計篇より お互い……損な性分だな、斗詩? 「……ふむ?」 秋蘭は、そういえば……と思い出した。酒家でその時、あの娘は興味深いことを云っていた。それは、先程の朱里の態度から察するに、多分朱里のことだろう。 「……ふむ」 「秋蘭?」 何かを考え込んだ秋蘭に、華琳は怪訝そうな声をかけるものの、秋蘭は返事をしなかった。 「……お仕置きね」 3 「おい!」 「んー?」 「あ……」 翠と連れ立って歩いていた朱里は、かけられた声に視線を向ける。庭の卓から春蘭と秋蘭が、こちらを見ていた。 「あぁ、夏侯惇……に、夏侯淵。何か用か?」 「貴様に用はない。そこの軍師にだ」 「ご挨拶だなぁ……」 春蘭がにらみを利かせ、翠は受け流す。姉の横で、まずいな、とこっそり秋蘭は思った。朱里を待っていたのは事実だが、翠を連れているとは思わなかった。 その翠が、秋蘭を見て、太い眉毛を心持ち歪めたものの、朱里の頭を軽く叩いて。 「ンじゃぁ、あたし行ってるからな。襲われるなよー」 「あはは、判りましたー」 「誰が襲うか!」 立ち去ろうとする翠に、朱里は笑い春蘭は怒ったものの、秋蘭は腕を組み、その背に声をかける。 「馬超殿」 名で呼ばれて、翠は足を止めた。 「その発言は、わたしへの当てこすりか?」 「……悪いけど、あたしまだあんたと口利くつもりねーんだ」 錦馬超は、だが振り向かない。 「でも、そーいうつもりじゃなかったから。気を悪くしたンなら、そこは謝っとく」 「……そうか」 軽く手を振って、翠はそのまま回廊を歩いていった。秋蘭は複雑な視線で、その背中を見送る。 ……ことは数年前までさかのぼる。宦官だった父の死から曹魏の王となった華琳を、ある日、翠の父・馬騰が訪ねてきた。弔問外交という名目だったが、当時の華琳は、現在よりさらに幼い容貌。さすがに、勇猛をもって知られた馬騰とまみえるのに躊躇いを覚えた。そのため、春蘭を玉座に座らせ、華琳自身は傍らに侍る、という工作を行った。 この工作そのものは上手く行き、面会は問題なく済んだのだが、その後がまずかった。不安になった華琳は、馬騰のところに秋蘭を送って『曹魏の王』の評価を尋ねさせた。 『ふむ……武には長けるようだな。将来、うちの娘と張りあえるくらいにはなるだろう。正直、国を治めるに足る人物かは、不安だがな』 不安、と云いながらも馬騰は秋蘭に微笑んで。 『だが、傍らにいたあの小さな娘。あの娘はいいな……只者ではないぞ。あの娘が補佐役として成長したなら、曹魏も安泰だろうて』 後日、華琳本人が非礼を詫びて事なきを得たが、以後華琳は覇王として頑なな態度を見せるようになった……。(※3) それから数年して、華琳の命により秋蘭は謀略を講じ、馬騰を殺し、馬一族を離散に追い込んでいる。涼州を制圧したのも秋蘭だった。ために、翠が華琳よりも秋蘭を怨んでいたとしても、おかしくはない。 華琳にせよ秋蘭にせよ、先日云ったように怨んではいないようだが……本人が云った通り“まだ”複雑な心境、というところか。 「えーと……それで、何か御用ですか?」 「ん? あぁ、そうだった。手紙について聞いているか?」 いちおう事情を判っている同士、口を挟むのを躊躇っていたふたりが、会話を再開した。右眼と亡い左眼で、春蘭は朱里を見下ろす。云われた朱里はきょとんと春蘭を見上げて。 「お手紙……ですか?」 ふたりは「やっぱり……」と溜め息を交わした。 「どうか、なさったんですか?」 「いや、先日な……」 (ぽわんぽわんぽわんぽわん) 「北郷! 入るぞ!」 「ぅわ、びっくりした!? ……夏侯惇さん、ひとの部屋にいきなり入らないでくれませんか?」 「なぜ敬語か。ついでに聞くが、卓の下にナニを隠した」 「イエ、ナンデモアリマセンヨ?」 (廊下から)「ゆえー? どこ行ったのよー?」 「……だいたい判った。程々にしておくべきだと思うぞ」 「いや、キミらに云われたくないというか、何と云うか……。で、何か用?」 「あぁ、そうだった。実は、手紙を書きたいのだが」 「手紙?」 「うむ。捕虜になってしばらく経つから、洛陽や許昌に近況報告をな」 「あぁ、いいよ」 「……そう云うとは思ったが、検閲は行わないのか?」 「ひとの手紙見るほど、野暮じゃないって。好きに出していいよ……っ!?」 (乱入)「くぉら、ち○こ男! ボクに隠れて月と何してるのよ!?」 「だから、いきなり入って来ないでー! 俺、いちおうここの主!」 「うっさい! ち○この遣いが月に手を出すな!」 「詠ちゃん、ご主人様に非道いことしないで……」 「……邪魔したな」 「助けて行ってー!?」 (ぽわんぽわんぽわんぽわん) 「……という次第だ」 「そういえば、ご主人様が詠さんにボコボコにされてましたっけ……」 何となく、3人で溜め息を交わしてしまった。 「……それで、お手紙ですか」 「あぁ。洛陽の張郊に出したいのだが……中身、改めてもらわねばならんよな?」 「そうですね……」 朱里本人の意見としては、一刀同様、捕虜とはいえひとの手紙を見るような真似はしたくない。しかし、いちおうは勝者として、捕虜への監督責任というものがある。 秋蘭は膝を折ると、目線を朱里にあわせた。 「諸葛殿、貴公にこれを預けよう。検閲するなり添削するなり、好きにしてくれ」 「はぁ……では、お預かりしますね」 朱里は手紙を手に、回廊をとことこ歩いていった。その小さな姿を見送って、春蘭は妹に右眼を向ける。 「で、何を企んでいる?」 「企むとはひと聞きの悪い。わたしはただ、華琳さまのためを思ってだな」 「……ふん」 華琳の名を出すと、春蘭は面白くなさそうに口をつぐんだ。……秋蘭に云われた通り、一刀から手紙を出す許可を得て、手紙を書いて、朱里が通りかかるのを待つ。それだけで、どうして華琳さまのためになるというのか。 秋蘭は、口元にうっすらと笑みを浮かべる。 「足りない頭をそう使うな、姉者。上手く行けば、北郷殿は華琳さまに、州のひとつもくれるかもしれん」 「足りない、云うな!」 むきになって怒る姉を聞き流して、秋蘭は筆や墨の後片付けを始めた。 4 「うぅ〜ん……」 朱里は、手紙を手に、ちょっと困っている。 自分の判断で処理してもいい問題には思えるが……そうなると、発覚したとき一刀に、愛紗辺りがナニをするか。 『どうして、我らに何の相談もなく、そのようなことを決定するのですか!? 今でこそ大人しくしていますが、連中が何を企んでいるか判ったものではないのですよ! そのような手紙、出させるわけにはいきません!』 云っていることがなまじ正論なだけに、朱里としても対応に窮するのだ。確かに、捕虜が手紙を出すのはともかく、その中身も確認しないなど考えられない。 「……それこそ、愛紗さんに持っていけばいいかなぁ」 「呼んだか、朱里?」 後ろから声をかけられて、朱里は驚きかけたものの、聞き慣れた声だったのでそれほど動揺しないで済んだ。振り返ると、愛紗と紫苑が連れ立って歩いている。 「あ、愛紗さん……」 「どうした? 何かあったのか?」 いかにも融通が利かなそうな、一本気な表情。北郷軍の軍令を事実上預かっている愛紗そのひとだった。軍政を預かる朱里と、両輪を成して北郷軍を支える重鎮だが、一刀が華琳たちと仲良くしているのを好ましく思っていない。……それが、立場としてか女としてかは微妙なところだが。 「えーっと……ですね」 朱里ひとりでは説得できるかは微妙なところだったが、朱里に次ぐ軍政・民政の責任者の紫苑もいるのだから、上手くいくかもしれない。そう判断した朱里は、先程受け取った手紙をふたりに示した。 事情を説明すると、当然愛紗は眉を吊り上げる。 「まったく……ご主人様は、また我々に何の相談もなく、そのようなことを……」 「まぁまぁ、愛紗ちゃん。ご主人様は、女の子にだらしないから」 「……それ、何の慰めにもなってません」 紫苑の執務室で卓を囲んで、女三人、姦しく。まして肴が愛する男では、盛り上がるのも無理からぬことだった。 「しかしだな、紫苑。もし、何らかの命令を伝えていたらどうする? 夏侯惇はともかく、夏侯淵は油断ならんぞ」 「何か企んでいるって、決まったわけじゃないんでしょ? 本当に、ただの近況報告かもしれないじゃない」 子持ちの未亡人という、どっかの雪男が泣いて喜びそうな設定の弓使い(この辺も降雪指数が高い)は、おっとりとした微笑みを浮かべる。最年長、愛紗はともかく朱里よりひと回りは年上なので、その発言は北郷軍において重きを置かれていた。我が意を得たりと、朱里もおっとりと。 「わたしとしても、そんなに目くじら立てたくないですね。問題がないなら、お手紙くらい出してあげても……」 「問題がなければだろう? 問題があったらどうするのだ」 「あるのかしら?」 「それは……見てみないと、何とも」 さすがに、そこまでは愛紗でもごねられないようだった。朱里は、春蘭からの手紙を愛紗に差し出す。 「洛陽の、張郊にか……」 張郊は、もともと袁紹に仕えていたが、華琳(曹操)の北上に際して降伏し、春蘭(夏侯惇)の配下に編入された。曹魏降伏後はその才を認められ、現在では後漢の都・洛陽の守備隊長を張っている。愛紗に云わせると「外地にいる危険分子筆頭」ということになるが、今のところは職務に専念している……ように見えていた。(※4) 「むっ……」 手紙を広げ、内容に眼を通していた愛紗だが、次第に表情が険しくなってくる。 「むむむっ……」 「はわ、愛紗さん……? もしかして……」 愛紗のあまりな表情に、朱里は、あるいは本当に何か書いてあったのかと不安になったものの、紫苑は落ちついたもので、お茶をすすりながら。 「何も、問題ないのかしらね? その表情は」 「……今のところは」 何もないのが気に入らなかったらしい。朱里もほっと肩をなでおろした。表情をやわらげて、だが愛紗は不満そうに。 「……本当に、近況の報告ばかりだな。華琳……曹操は元気にしているとか、外出に不自由はあるものの生活と安全は保障されているとか。また、夏侯惇らしく、職務には専念するように、とも記している」 「そのまま、出しても問題がないようなものかしら」 「……最終的な判断はご主人様に委ねるが、わたしには、問題があるようには見えないな」 肝心なことを紫苑が確認すると、愛紗は、手紙を閉じて朱里に差し出した。朱里は笑って、それを拒む。 「愛紗さんが問題ないって申し上げれば、ご主人様はきっと、そのまま出していいって云われますよ」 「ご自分では確認もなさらずに、な」 そういうひとだから。3人で、朗らかに微笑みを交わしてしまった。 が、笑ってもいられないと、愛紗は無理に表情を硬くして。 「まぁ、いくらか気になる記述はあったがな。以前、洛陽に袁紹が出没したようなことが書かれている」 「……あら」 紫苑は言葉少なく、だが素早く手紙を愛紗の手から抜き、広げた。獲物を探す狩人の眼になった紫苑は、やがて、誰にともなく聞かせるように口を開く。 「過日、洛陽近郊にて取り逃がした袁紹一党だが、また出現しないとも限らぬ。警備には万全を尽くし、もし袁紹再び蠢動した際には、今度こそこれを討ち果たすべし……」 「懐かしい名を聞いた気分だな」 愛紗の声に、朱里も紫苑も応えなかった。 「はわわ……」 朱里は、やや強張った表情で。 「気づかれていたのかしら……夏侯淵」 紫苑は、狩人の眼のまま思い詰めた様子で。 「? ……ふたりとも、どうした?」 「いえ……」 「何でも……ないわよ」 はい、と渡された手紙を、朱里は今度は拒まなかった。一瞬で全文を暗記すると、すぐに閉じる。 「では、こちらはご主人様にお届けしますね」 「そうだな、頼む」 「はいです♪」 笑顔さえ見せて、朱里は椅子から立ち上がった。先程の強張った表情を消して、とてとてと執務室を後にする。 「朱里ちゃんも……?」 紫苑が何かを呟いたようだったが、それは愛紗の耳には届かなかった。 5 その夜。 「ふぅ……」 今日もいちにち“孫子”の注釈をしていた華琳は、やや疲れた様子で書簡を閉じた。侍っているのは春蘭と秋蘭。季衣はすでにおねむで、桂花は席を外していた。庭の酒蔵で一刀相手にひしゃくを振り回して「請与我一起死!(訳:死ぬときは一緒よ)」とか何とかしでかしたとのこと。試飲でもしたのだろうか。 「……それで、どうやって朱里を献じてくれるのかしら? 秋蘭」 策をもって朱里を献じる――と、秋蘭が云ってきたのは先日のこと。責めの最中だったので本気とは思えなかったが、ここ数日なにやら暗躍していたのは事実。成果は如何にと尋ねれば、主の声に、秋蘭は低く微笑んだ。 「策は弄しました。あの軍師殿の性格からして、今夜中には」 「そう。楽しみだわ」 しかし、と不満そうにしていた春蘭が口を挟む。 「あの手紙……それほど効果があるのか? 云われた通り、近況報告と職務励行しか触れていないが」 「内容はどうでもいいのさ、姉者。要点さえ押さえてあれば、諸葛殿は釣れる」 秋蘭が書けば確実だったかもしれないが、愛紗はあの夜以来、どうにも秋蘭に厳しい視線を向けてきている。睦言の内容までは聞かれなかっただろうが、警戒するに越したことはない。 華琳さまはご機嫌だが、これは朱里のことだけではない。そもそも華琳は、朱里や亡き賈駆にも引けを取らない、後漢末きっての謀略家だ。策を弄するとのフレーズには、心が躍ってしまう。自分のモノがそーいう真似ができるようになるのは、喜ばしいことだった。 こんこんこんっ 3人(ただし5つ)の眼がそちらを向いた。 「誰? 空いてるわよ、入ってきなさい」 「失礼しますー……」 か細い声がして、朱里が顔を出した。 「あら、朱里? 夜這いに来てくれたのかしら?」 「はひゃっ!? いえ、そんなことは……そんなことじゃ、なくてですね」 はわわ軍師は、硬い、そして困り果てている表情で、後ろ手に戸を閉じる。室内にいた3人は、それぞれの表情で朱里を迎えた。華琳はご機嫌そうな、春蘭は不機嫌そうな表情で朱里を見つめ、そして秋蘭はと云えば、口元にうっすらと笑みを浮かべている。 朱里は、渇く喉から言葉を搾り出す。 「この……お手紙なんですけど」 朱里が取り出した、朱里に預けたその手紙。 「あら。何か、まずいことでも書いてあった?」 返事をしたのは華琳だった。硬い表情のまま、朱里は続ける。 「袁紹さんが、洛陽に出没なさったんですか?」 「……あぁ、そんなこともあったかしら? 大したことじゃなかったから、気にしてなかったわ」 とぼけた、というよりは華琳の本心だ。当時ちょっと騒ぎにはなったが、春蘭や秋蘭の動きが迅速だったため、被害は古い城がひとつ、潰れただけで済んだ。 「どうして……袁紹さんのお話を?」 「何かまずいのかしら?」 やはり、素で「何が悪いのか判りません」という表情をすると、朱里は必死の形相を浮かべかけた。ここで、ここまで黙っていた秋蘭が、口を開く。 「例え話をしよう、諸葛殿。……仮に、華琳さまが北郷殿に討たれたとする」 「秋蘭!?」 何も知らない春蘭が悲鳴に近い声を上げるが、秋蘭は気にせず続ける。 「華琳さまが北郷殿に討たれたとする。わたしや姉者は華琳さまの仇をとろうと、北郷軍を打ち破り、北郷殿を縄目とした。……ところが、我らの部下たる季衣が、北郷殿を逃がしたとする」 賢明なる諸葛亮は、すでに顔色を失っていた。秋蘭は静かに、冷たい眼差しで朱里を見据える。 「我らは、季衣を許すだろうか」 「許さないわね」 間髪入れずに華琳が応えた。事態を引っ掻き回すのは大好きなので、絶好のタイミングで口を挟んだものの、それは効果的だったようで、蒼白だった朱里の表情が、さらに血の気を失い、土気色にさえなっていた。 「ご明察。いくら季衣でも、この状況、この事態では、許すことはできません」 「はわっ……はひっ……」 「諸葛殿」 静かに、秋蘭は告げる。 「貴公、以前袁紹一党を逃がしたことがおありだな。……それも、北郷殿の手にかかる直前に」 朱里の小さな身体が跳ね、春蘭が身を乗り出す。さすがの華琳でさえ口をつぐんだ。黙っていた方が面白いことになりそうね、とか考えたらしい。 「はぅ……!? あれは、その……!」 「天界より来たとはいえ、北郷殿も男。女に涙を見せるような真似はすまい。ゆえに、袁紹や公孫賛のことを口に出さず、忘れたように振舞っているが……」 あの時、地方の巡察を行っていた一刀一行をもてなそうと、寒村の村人たちは、たまたま村に潜んでいた袁紹一行を捕らえ、人肉料理に饗しようとした。それを聞いた一刀は「そんなことするなーっ!」と咎め、村人相手に説教を始める。その間に朱里は、袁紹一行の、旧知であった将軍・顔良の縛を解き、顔良は袁紹らを助けた。 すでに袁家は滅んでいたので、積極的に北郷軍と敵対しないなら逃がしてもかまわないと判断したのだが…… 「袁紹たちを討つ契機を逃したと知ったら、北郷殿はどうなさるだろうな」 顔良の真名は、斗詩と云った。 座り込んだ朱里は、小さな身体を震わせながら、短い悲鳴を上げ続けている。先日来、華琳たちが『一刀が袁紹に執着している』と発言しているのが本当だったなら、朱里は一刀を裏切ったに等しい。そして、朱里には本当だと信じる理由があった。 あの日、公孫賛が死んだと聞いた時。一刀は……その責全てを負ったような、いたたまれない顔をした。 そこから立ち直ってはくれた。そこから立ち上がってはくれた。そして、すでに大陸の半ばを擁する王者へと変貌していたことで、公孫賛のことを忘れたと思っていた。 一刀を支えてきた朱里は、一刀がそれほど強い男ではないと、知っている。割り切れたり忘れたりできる男なら、もう少し一刀は楽になったかもしれない。だが、それができないからこそ、一刀は一刀なのだ。 袁紹を助けたのは……間違いだったのかもしれない。朱里が逃がしたと聞けば、多分一刀なら許してくれる。だが、一刀にまたあのような顔をさせては、朱里が自分を許せない。 「……状況が、まるで判らんのだが」 「姉者は判らなくていい」 「どーいう意味だ、秋蘭!?」 「黙ってなさい、春蘭。……ねぇ、朱里?」 華琳は、座り込んだままの朱里に、やらしく……もとい(間違ってはいないが)、優しく声をかける。 「そんなに震えてるのは、喉が渇いているからじゃない? お茶でもどうかしら」 朱里の肩が跳ねた。先日の、華琳と桂花の痴態がはっきりと思い出される。 だが、拒めばどうなるのかは明白だった。……秋蘭は、全てを一刀に話すだろう。 「はわ、はぅ……!?」 「秋蘭、お茶」 「御意」 静かに、秋蘭は応えた。朱里は怯えきった仔兎のような眼で、秋蘭を見上げる。 こんこんこんっ 「っ……!? 誰!?」 「いいところで、お邪魔させてもらってもよろしいかしら?」 美人・美女ぞろいの北郷軍中にあって、唯一華琳の食指が動かない、その女の声がした。正直、朱里は食べ頃と云うにはやや早く、鈴々ではもっと早い。その両者とは逆に、その女はすでに華琳の守備範囲を、上に外れている。 「紫苑……」 突然の乱入者に、華琳は舌打ちし、朱里は助かったとすがるような表情を浮かべる。完全に事態から置いてけぼりになっている春蘭はともかく、秋蘭は口元に笑みを浮かべていた。 その笑みが気にはなったものの、紫苑は一同を見渡し、思い詰めている視線を秋蘭に向けた。 「朱里ちゃんがそういうコトをしていたのはともかく……秋蘭ちゃん、ちょっとお話聞かせていただけるかしら?」 「かまわぬが……」 年長者に対しての礼はともかく、いささか慇懃に秋蘭は応じる。 「ただ、内容が内容ゆえに、北郷殿立会いのもとで話すというのはいかがであろうな」 6 「……そうか」 話を聞き終えた一刀は、寂しそうに溜め息をついた。 一刀の私室。寝る直前だったそこに押しかけたのは、秋蘭と紫苑、そして朱里。秋蘭が「お任せを」と告げると、華琳は春蘭を相手に閨に着いたため、ついては来なかった。 「袁紹たちが、そう簡単に死ぬとは思っていなかったけど……やっぱり、生きてたんだな」 「まだ、生きているだろうな。そう簡単に、くたばる連中ではない」 「そうだな……」 一刀は、涙眼になっている朱里の頭をなでて。 「気にしなくていいんだよ、朱里。袁紹たちが今更なにをしようとしても、俺たちには関係ないんだから」 「……はい」 やはり、と云うべきだろう。一刀は朱里を許した。そういう男ではあるのだが……頭をなでているその手が、少しだけ震えたのを、朱里はきちんと気づいてしまう。ご主人様は、伯珪さんを……? 「それは、本心ですの? ご主人様」 朱里の動揺を他所に、ややきつい口調で、紫苑が口を挟んだ。その物云いに、一刀は眉をひそめて紫苑を仰ぐ。 「紫苑……何か、袁紹に怨みでもあるのか? ちょっときついけど」 「あります。それも、著しい怨みが」 云い切る未亡人。これは、秋蘭でも予想していなかった発言だった。3人分の視線を受けて、紫苑は大きすぎる胸を揺らし……もとい、反らした。 「お忘れですか、ご主人様? この黄漢升は、袁紹に人質を取られ、心ならずもご主人様に弓引いたのですよ」 「あぁ……」 「しかもその人質は、わたくしがおなかを痛めて産んだ娘です。これで怨みを抱かぬ母が、いったいどこにいます?」 公人としての黄忠はともかく、母としての紫苑は袁紹を怨んでいた。考え方によっては、そのせいで紫苑も北郷軍に加わるに到ったのだが、そういう問題ではない。 「今からでも遅くはございませんわ、ご主人様。袁紹の追討をお命じください。このまま袁紹たちを野放しにしておけば、またわたくしのような母親が出るやもしれません!」 強い口調で紫苑は云い放った。普段の大人びた(オトナだが)態度で暴走しがちな北郷軍を制する年長者の姿はそこにはない。だが、一刀は紫苑を制する。 「紫苑……朱里が」 ここで紫苑が強硬論を唱えれば、唱えるほどに朱里を追い詰める。袁紹を放っておきたくないのは一刀の本心だが……それを理由に、朱里を失うわけにはいかない。娘とさして変わらぬ年代のこどもが泣いては、公人としてはともかく母としては、強く主張はできなかった。 「では北郷殿、わたしに一ヶ月の時間と自由をいただきたい」 まっすぐに一刀を見つめ、秋蘭が口を開いた。 「夏侯淵……?」 「この夏侯淵妙才の名に賭けて、袁紹一党を捕らえてご覧に入れる。一ヶ月の間自由をいただければ、必ず」 言葉は短いが、それだけに覚悟が伝わってきていた。 そもそも秋蘭は、朱里を助けに誰か(愛紗と踏んでいたのだが)が乱入してくることまで計算していた。華琳をも利用して朱里をおびき出し、その上で、一刀に袁紹追討令を出させる。閨でとはいえ弱みを見せたことで、一刀は自分を高く評価していると、秋蘭は自覚している。自分がやると申し出れば、ある程度の条件は出すかもしれないが、拒みはしないはず。唯一、紫苑の思わぬ逆上ぶりだけが計算外ではあったが、大勢に影響しないどころかむしろ追い風。 公孫賛に対する一刀の執着心、それを晴らせるのは袁紹の首ないし身柄のみ。秋蘭が袁紹を捕らえれば、褒賞は思いのままだろう。華琳のために州ひとつ……いや、国ひとつを用意させるのも、不可能ではあるまい。 「1ヶ月……ですか」 紫苑は、厳しい表情のまま一刀に眼をやった。値切るにはいささか切りのよすぎる数字だ。また、曹魏にそのひとありと称され、西方諸州を制した夏侯淵ならば、それくらいやってのけるかもしれないという期待感もある。 「……朱里を責めるわけじゃないけど」 一刀は、やや浮ついた声で。 「袁紹たちの行方は……探しておいた方がいいのかもしれないな」 秋蘭の心残りは、たったひとつ。……未だ袁紹の元を離れていないであろう、斗詩のこと。袁紹を討てば、斗詩は死ぬ。華琳のためとはいえ、自分は斗詩を犠牲にできるのか。 「……では?」 答えを促した秋蘭の声に、一刀は、朱里の頭から手を上げずに、視線を秋蘭に戻す。 「あー、もぉ! 夜中にうるっさいわね!」 ……音高く戸が開け放たれ、めがねのメイドが肩を怒らせ、乱入してきた。 「詠……?」 さん、ちゃん、と朱里と紫苑が付け足したものの、秋蘭以外の3人は、メイドさんを呆然と見詰める。唯一秋蘭が、視線を細くして詠を見返した。 「侍女が乱入してくる場面ではないぞ……今、極めて大事な話をしている」 「ったく……。何年も前の古傷を、改めて抉りなおす相談が大事な話? 程度の低いこと云ってンじゃないわよ。こんな時間に、わざわざガン首そろえて何やってンだか」 聞いていない様子で、ずかずかと大股で近づいてきた詠は、一刀の胸倉を締め上げた。 「結局、あんたはあの時、公孫賛に援軍を出せなかったのを悔やみ続けてるんでしょーが。反省するのは悪いことじゃないけど、後悔するのは悪いことなんだからね。そんな考えで、国が保てると思ってるの?」 「……詠。そうは云うけど」 「えぇ、その通りですよ。ボクはメイドだから、国の方策に口出そうとは思わない。でも、ひとつ云っておくわ」 一刀の胸元を離し、詠は、めがねの奥のキツい視線を、一刀に向ける。 「翠は、曹操を許したわよ」 この発言に、秋蘭は息を呑んだ。紫苑は厳しい表情を崩さず、朱里は顔を上げることができず、そして一刀は呆然と詠を見つめている。云うだけ云った詠は、来たとき同様大股で、言葉を失った一同を捨てて部屋から出て行く。 「……詠」 一刀の声に、詠は足を止め、だが振り向かなかった。 「……ありがとな、詠」 「……ふん」 詠は、部屋を出た。 ややあって、一刀は顔を上げた。憑き物が落ちたような……そんな表情になっている。 「袁紹は、もう放っておこう。行方を捜す必要はない……もっとも、また挑んできたら、今度こそ叩き潰すけど」 「御意、です……」 泣き止んだ朱里が、小さな声で応じる。紫苑は不満そうだったが、表情から険が落ちていた。 秋蘭は、残念そうに肩を落としたものの、表情には出さずに。 「……では、わたしは失礼しようか」 「あぁ……悪いね、夏侯淵」 「そうだな。華琳さまのご機嫌を、どうやって取ったものか」 半ば本気で、秋蘭はぼやいた。 7 一刀の部屋を出た秋蘭は、廊下を見渡した。少し離れた部屋の戸が閉じたので、そこへ足早に近づく。 一度は閉じたが、秋蘭の気配を察したのか、戸が開いて詠が顔を出した。 「何? ボクに何か用?」 「ふたつ、確認したいことがあってな」 「月が寝てるんだから、手短にしてよね……ったく」 ふてぶてしくぼやいた詠の、正面に秋蘭は立った。確かに、部屋の中の寝台では、もうひとりのメイドが寝息を立てている。自分より低いところにある目線に、だが秋蘭は、今度はあわせようとはしなかった。 「北郷殿に公孫賛を見捨てよと進言したのは、貴公か?」 詠は、めがねの奥の眼を細め、軽く鼻を鳴らす。 「そうよ。あのままじゃ、アイツ、ひとりで出て行って、死にかねない様子だったから」 不満そうに吐き捨てたが、その眼にはいくらか憐憫が宿っている。認めたくはないことだったが、詠にしても一刀は大事な主人だ。死なせたいとは思わなかった。 「云ってやったのよ。出陣しても、袁紹とどう戦うのかって。マトモに戦りあえば勝てるわけがない戦力差。それを覆して勝てたとしても、被害は甚大なはず。そうまでして助けたとしても、じゃぁ公孫賛はそれを喜ぶのかって」 「北郷殿は、どう応えた」 「アイツは動かなかった。それが全てよ」 自分の発言は教えても、その時一刀がどう考え、何を云ったのかは口にしない。判断力、分析力、提示する情報の取捨選択の正確さ。いずれにおいても、この小さなメイドは超一流。 何より気になるのは、詠が先程云い放った発言だ。翠は、曹操を許した、と。 翠……馬超の、父・馬騰はかつて曹操の謀略で殺され、馬一族は離散した。ために、翠は旧知の北郷軍を頼り、以後北郷軍の主力として奮戦している。 先日、華琳が道士に操られ白装束の軍団を率いたため、それを救うべく秋蘭たちは北郷軍に助力を乞うた。その見返りとして曹魏は一刀に降伏したのだが、愛紗は(もちろん)曹操を助ける義理はないと進言し、他の武将たちも助力を否定する中で、はっきり助けてやろうと発言したのが、余人ならぬ翠そのひとだった。馬騰を殺された怨みを大義のためと押し殺し、愛紗らを説得して北郷軍を動かした。 翠がその時見せた態度に、北郷軍の中枢は、等しく敬意を払っている。だから、その話を持ち出せば、個人の怨みから袁紹を討つことは、断念せざるを得ない。 そこまでは、いい。問題は、この発言は、秋蘭の動きをも封じられる、ということだ。馬一族への謀略を担当したのが、秋蘭に他ならないのだから。直接手を下したわけではない華琳なら、翠が華琳を許したと聞いても眉ひとつ動かさないだろうが、秋蘭は違う。秋蘭は、馬騰のことを持ち出されると、反論も抗弁もできなくなる立場にある。それこそ翠が、秋蘭を許さない限り。 一刀たちどころか秋蘭をも黙らせ、ついでに自分が公孫賛を見捨てさせたことをも結果的に許させる。それも、たったひと言で、だ。なぜ、このような切れ者が、侍女をしている……? 「詠ちゃん……?」 月が、寝台でもぞもぞと顔を起こした。こちらの騒ぎが聞こえたのかもしれない。 「あぁ、月。起こしちゃった? ごめんね〜」 ころりと甘い声を出して、詠は秋蘭から視線を外した。もういいでしょ、という態度で戸に手をかける。 「待った。もうひとつ」 「……そういえば、ふたつだったわね。何よ」 顔だけで振り返った詠に、秋蘭は殺気さえ孕んだ視線を向ける。低く声を落としたのは、寝ている少女への気遣いであって、緊張ではない。……と、思いたい。 「貴公、何者だ」 めがねの奥の瞳が、一瞬だけ閉じられた。開いたその眼は、挑むように歪んでいて。 「我が名は、賈文和」 「っ……!?」 夏侯淵ほどの武人が、一瞬息を呑んだ。夜、それも一刀を尋ねるということで置いてきた獲物を求め、左手が無意識に弓を探す。だが、詠はすぐに視線を秋蘭から外した。そのまま音を立てずに戸を閉じ、室内へと姿を消す。 かつて洛陽を制し皇帝を擁した董卓軍に、そのひとありと謳われた、神策鬼謀の軍師、賈駆。曹操のみならず、そんな者まで受け入れるとは……。背筋の寒さが収まらない。軽い左手を握りしめ、秋蘭は呟いていた。 「……魏が、負けるわけだ」 8 『へぇ……おまえが天の御遣いと噂されている男か』 珍獣でも眺めるような、あの視線。 『ええい、礼なんて云うなっ! こっぱずかしいじゃないかっ!』 真っ赤になっていた、あの表情。 『だが……まぁなんだ。その……武運を祈っておいてやる』 不満そうに見送ってくれた、あの態度。 『あんま無理すんなよ? 私の方は出来るだけ助けてやるからさ』 孤立した俺を励ましてくれた、あの笑顔。 『北郷……』 あの、声。 ……眼を閉じれば何もかも思い出せるのに、もう伯珪さんはいない。 どこにも、いない…… 「……むぎゅ?」 鼻をつままれた感触に、一刀は意識を取り戻した。 「閨で他の女のことを考えるのは、いかがなものかと思うが、北郷殿」 秋蘭は、少し不満そうに鼻から指を外した。んぁ……とひと声もらして、一刀は秋蘭を抱き寄せる。 「あー……判っちゃった?」 「見れば判る。貴公は、考えていることがすぐ顔に出るからな」 今回は、考えていることが眼から液体となって出てきていたから、なおさら判った。何気なく指先で目元を拭って、秋蘭は一刀を見つめる。 「……公孫賛殿は、そんなにいい女だったのか?」 触れた傷跡はふさがってはいても……たぶん、深い。一刀は、少しの間だけ、眼を伏せた。 「いい女っていうか……あの頃、俺たちの軍に味方してくれたのは、伯珪さんだけだったから。頼れる姉貴分って感じで、俺も懐いちゃったんだよな」 「頼れる姉……か。粗忽な姉を持つ身としては、羨ましく思えるな」 「あはは……」 苦笑したように笑って、一刀は腕で眼を覆った。 「伯珪さんのことは、今でも好きだけど……あまり、悲しんでもいられないだろうな。天国に逝った姉に心配かけたままじゃ、弟として申し訳ないから」 「……そうだな」 何となく、秋蘭は一刀の気持ちが判った……ような気がした。 天から遣わされたこの少年は、愛紗らによって祭り上げられた君主。ひとの上に立てる資質はあっても、君主たる自覚に欠けていた。王とは……君主とは何か。それを見せたのが、公孫賛だったのかもしれない。最初は、小勢だった一刀を救うことで。最期は、死ぬことで。 ……華琳さまもそうだが、この御仁と接すると、丸くなるのかもしれない。秋蘭は思う。あの頃の公孫賛なら、自分ひとりだけでででも逃げていたはずだ。 「北郷殿」 腕を下ろさせ、秋蘭は一刀を見据えた。涙を見ずに。 「わたしの忠義は、華琳さまに捧げている。貴公に仕えることはできぬ。……貴公の手にはもう、弓があるのだしな」 黄忠の弓勢は夏侯淵を凌ぐ。弓が二張りあっても不都合はなかろうが、秋蘭は、己の主を華琳と定めている。 「だから、華琳さまが許されるなら、わたしは貴公のために弓を引く。華琳さまが許されるなら、わたしはこの身体で貴公に尽くす。……そして、閨においては、華琳さまよりも貴公を優先しよう」 「……秋蘭」 「華琳さまと……貴公が望むなら」 一刀は、もう一度眼を伏せた。涙をこらえたのではなく、秋蘭がそれを望んでいると察したから。 一刀の頬に手を添え、秋蘭は唇を重ねる。接吻など、さしたることではないと思っていたが……これは、いくらか歯がゆい。背中がくすぐったくなって、秋蘭はすぐに離れた。 一刀の視線に、秋蘭は頬を染める。 「だが、姉とは思ってくれるなよ? 確かに、わたしは貴公より年上だが……」 一刀の笑顔を見ておれず、秋蘭はその胸に顔を埋めた。大陸に名を馳せた、愛紗や翠が惚れ込んだのが判る……そんな、意外なまでに広い、胸元。 「嬉しいよ、秋蘭」 「……はい、ご主人様」 何となく込みあがってきて、秋蘭は、自分でも意外なほど軽やかに、微笑んでしまった。 終 注 作中における“孫子”に関する記述は、ほぼ実史のものを使用しています。 ※1 正しくは、月に賓という字。外字になるので、表記できないと思います。 ※2 「曹操なければ天下は……」云々の台詞は、実史では曹洪が口にしたものです。 ※3 実史では、馬騰ではなく異民族の使者を相手にしたエピソードです。他の武将(夏侯惇との記述もない)を代理に立てたところ、その使者に『あの小さい方こそが油断ならん』と見抜かれた……と、ほぼこの通りの展開になります。 たったひとつ、使者は帰り道で殺されていますが。 ※4 オリジナル設定です。 |