交わされる挨拶……
 飛び交う歌い文句……
 そこかしこで花咲く談笑……
 相変わらずここの市場は賑わっている。
 限定的とはいえ、外出が許されて以降、何度となく足を運んだ城下を見回して、改めて思う。
 市といえば、まるで定規をあてたかのように整然とした通りに華やかに飾り立てた絢爛たる軒が連なる……それが華琳にとっての市というものだった。
 事実、洛陽ではそれこそが市と呼ばれていたのだ。
 それが今はどうだろうか。
 道に屋台や露店が溢れ、傍らの秋蘭が巧みに先導しなければ、道行く人と裾が触れてしまう、この雑踏こそ市と呼ぶに相応しいように思う。
「くんくん……とっても良い匂いがするのだ!」
「あ、おいこら待て鈴々!抜け駆けは許さんぞ!」
 見れば、匂いに釣られたのか、張飛が監視役の任も忘れて屋台の一つへと駆け寄る。
 それを追う我が忠臣。
 春蘭などすでにこのぬるま湯のような雰囲気にすっかり馴染んでしまっているようだ。
 思えば、ここに来てからというもの、わたしの価値観は覆されてばかりである。
 この大地にいかに多くの魏の旗を立てるか……
 それがこれまでの目的であり、絶対的な価値であった。
 だが今は戦や政などよりも酒造りや筆を執ることの方が面白い。
 それもこれも、全ては天の御遣いとかいうあの男のせいだ。
 華琳は武人としてはあまりにも貧弱で、文人というにはいささか能天気な青年の顔を思い浮かべる。
 すると何故か無性に腹が立った。
「……少し小腹が空いたわね。」
 まるで言い訳をするように口を吐いた言葉を春蘭が耳ざとく聞きつけ、駈け戻る。
「それならこれなんていかがですか、華琳様?」
 かつては万夫不当の猛将と恐れられた魏の将軍、夏侯元譲は剣の変わりに串焼きをその手に笑顔を浮かべている。
 軽い眩暈が華琳を襲った。
「秋蘭……」
 半ば呆れ顔で秋蘭へと目線を移す。
「はっ!」
 秋蘭は短く答えて、先導するように角を折れた。

 
 白磁の器に湛えられた鮮やかな水面。立ち上る涼やかな香りが気分を落ち着かせる。
 華琳たちは馴染みの茶屋で一時の憩いを楽しんでいた。
 一通りの買い物を終え、後はこの店で以前注文していた茶葉を買って帰るだけである。
「あの〜申し訳ございません。」
と、店主が済まなそうな顔で現れる。手には茶葉の包みではなく、ふっくらと揚げられた芝麻球。
「うわぁ!とってもおいしそうなのだ!」
「こら、鈴々!いっぺんにそんなに頬張ってはわたしの……いや、華琳様の分がなくなるだろうが!」
 卓に置かれた菓子を嬉しそうに手を出す張飛と春蘭をよそに華琳の目つきは鋭くなった。
「どういうことかしら?わたしは芝麻球を頼んだ覚えは無いのだけれど?」
 トーンの下がった華琳の声に怯えながらも店主は口を開く。
「それが……ご注文頂いていた茶葉が仲立ちの手違いで手に入らなかったもので……本当に申し訳ございません!」
「……何ですって?」
「ひっ!」
 一層研ぎ澄まされていく視線を盆で防ぐ。しかし、彼女は自分を女に生んでくれた両親に感謝しなくてはならない。もし彼女が男だったなら、その睨みは白刃となって首を撥ねていたことだろう。
 店の奥の様子にただならぬ気配を感じ取った中年の男がそそくさと風呂敷包みを背負う。
「秋蘭。」
「はっ!」
 華琳の一声に秋蘭が席から消えた。
 敷居をまたごうとした男の履物が床に縫い付けられる。
「ひっ!ひぃぃぃぃぃぃ!!」
 見れば、足の親指と人差し指の間に竹串が刺さっているではないか。そして目の前に現れたのは氷のような瞳を宿した女。
 その酷寒の眼差しに射竦められ、男は腰を抜かした。
 歯の根が合わぬまま後退るものの、背後から聞こえてきた声に思わず硬直する。
「出入りの商人の分際でこのわたしを怒らせるなんてなかなかできることじゃないわね。誉めてあげる。」
それはまるで死後の沙汰を言い渡す泰山府君のような響きを持っていた。
「でもわたしの楽しみを奪った罪は重いわよ。」
 油の切れたブリキ人形のような動作で首を回せば、そこに居たのは思いのほか小柄な少女。だが、彼女の放つ気はその何十倍もの威圧感を男に与えた。
「さて、最期に何か言うことはあるかしら。もしつまらない事を言ったら……分かっているわね、春蘭?」
「はい、華琳様。」
 そう言って近づいて来たのは戸口を塞ぐ女とは対照的に紅蓮の炎を隻眼に宿している。
「いいか貴様、つまらないいい訳なら、その両の目玉を串焼きにして喰わせてやるから覚悟しろよ?」
 春蘭が雷帝の面立ちでそう宣告すると、商人はしどろもどろになりながら話し始めた。



「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
 発せられた気合よりも速いのではないかと思われる一閃が脇腹を掠めた。
「痛っっ!!!」
 遅れて広がる鈍い痛み。思わず取り落とした木剣が乾いた音をたてた。それが小休止の合図となって愛紗も剣を納める。
 ジリジリと差す陽光に吹き出た汗が端から蒸散していく。
 先の呉との決戦で、長い間この大陸を焼いていた戦火はようやく鎮まった。その戦後処理も一段落し、一刀は久しぶりにまとまった休みを得たのだ。星と雲を肴に酒でも飲もうか、それとも蓮と小川に散歩でも行こうかと、場内をうろついていたら、ちょうど訓練を終えた愛紗に見つかってしまったのが運の尽き。『ご主人様、ここのところ政務ばかりで身体がなまっておいででしょう。お暇でしたらわたしがお相手いたしましょう』と、にべも無く練兵場へと引っ立てられたのである。
「愛紗、もう少し手加減してくれよ。」
 ようやく言葉が出るほどには呼吸が凪いでいた。
「これでも十分に加減しております。わたしが本気を出していれば、当にご主人様の骨は瑠璃玻璃の如く砕け散っているところです。」
 一瞬、自分が軟体動物になってウネウネと笑いながらフラダンスを踊っている姿が頭に浮かんだ。いや〜な想像を拾った木剣で振り払う。
 確かに相手は今や三国において無双の兵。本気出せば自分は巻藁にすらならない。それでももう少しお手柔らかにして欲しいのは甘えだろうか。
「それにご主人様は何も敵を討ち取ろうとする必要はありません。」
「え?」
 再び正眼に構えを作った愛紗の言葉に驚く。
「咄嗟の一撃……初手だけでも凌いで下されば、あとは刹那のもとにわたしが馳せ参じ、敵を切り伏せましょう!」
 そう言って一瞬だけ笑顔を向けると、再び剣尖が空を裂いた。
「はぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「くっ!!」
 木剣の防御を易々とすり抜け、バネでも仕込んであるかのような伸びをみせて、愛紗の一太刀は右肩を撫でる。
「痛〜〜〜!!」
 柄こそ手離さなかったものの、腕全体に電撃を受けたような痛みが襲う。
「ご主人様、防御が早いです。それでは防ぐ前に相手に太刀筋を変えられてしまいます。」
「ご主人様は見の才があります。それを活かすのです。人は普通、眼前迫るものに対して無意識に眼を守ろうと瞼を閉じてしまいます。ですが、ご主人様にはそれが無い。ですから目一杯攻撃を引きつけてから防御をすれば良いのです。」
 一刀は長年剣道をやってきてそれなりに実力もあった。といっても、この時代では全く通用しないことは着いて早々に痛感したのだが。それでもそれが少しは役に立っていたようだ。
 剣道では通常、面や防具の上から打突をする。そしてどんなに力の強いヤツでも竹刀で防具は切れない。だからこそ絶対安全な太刀筋を恐れる事無く、見続けることが出来るのだ。幸か不幸かその習慣が身に染み付いているので、たとえ面が無くても、それが真剣の一撃であっても目背けることは無いだろう。
 そんなものは単に走馬灯を見ることも無く、自分の死の瞬間を目撃出来るだけかと思っていたのだが、なるほど防御だけに徹すれば使い道はあるかもしれない。といっても、愛紗や星のような目にも止まらぬ速さではそれも全く意味は無いが……
「では参ります。」
 再び愛紗が構えを取る。
「応よ!」
 幾度と無くこの時代の戦士達に格の違いをまざまざ見せ付けられ、半ば錆び付いていた刀身が身体の奥で、静かに閃いた。
(よぉし!せめて一太刀だけでも凌いでやる)
 一刀は愛紗と同じ正眼からやや峰を身体に引きつける。
 かつて何度も味わった緊張と高揚が柄を握る左手に蘇った。
 時の間隙。世界が五間にも満たない、交わる二つの円に凝縮される。
 刹那、愛紗の身体が僅かに縮んだ。
「りゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 流れる太刀筋に思わず振れる剣尖を押さえ込む。
(小手……胴……や、逆胴か!?)
 獲物を狙う蛇の鎌首のようにフェイントを交ぜ、最後に一刀の右脇に喰らいついた。
 乾いた音が練兵場にこだました。
「い……イッッッタ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!」
 一刀は脇腹を押さえて、その場にのた打ち回る。
「……は!?す、すみません!ご主人様!ちょっと力みすぎました!!」
 愛紗が慌てて駆け寄った。
 期せずして一刀が愛紗を下から見上げる形となる。
「し、白一本!!」
「なっ、なっ、なっ、何を見ているんですか!?ご主人様!」
 鍛錬で僅かに上気していた愛紗の顔はみるみるうちに真っ赤に染まり、両目を潰すように一刀の顔面を蹴った。
「うぎゃぉぉぉぉぉぉぉぉぉう!!」

「はぁ……やっぱ、そうそううまくはいかないか……」
 いくらか痛みの引いた頃、一刀は落とした木剣を手繰り寄せた。
 刃に見立てた箇所に走る傷跡。
 一刀の木剣が愛紗のそれを弾くよりも先にその切先は逆胴を捉えていた。
「いえ、最後の一合は見事でした。お恥ずかしいことにわたしもつい力を出し過ぎてしまいました。流石はご主人様です。」
「いや、そのご褒美は全然嬉しく無いし。おまけに顔面を……はぁ、せっかくの休みなのになぁ〜」
 ジト目で睨む一刀から視線を
「ささ、今日はもうこのぐらいにして、傷の手当てをして安静にしてましょう。」
 さっきまでの闘志はどこへやら、すっかりいつもの調子に戻った一刀を愛紗が抱えるように練兵場を後にした。



「痛い、いたい、イタイ、痛いよ!」
 まるで子供のような悲鳴がこの大陸を治める太守の部屋にこだました。
「朱里、もっと優しく。」
「はわわ、ごめんなさい!ご主人様。」
 朱里の小さな手でペたぺたと塗られる軟膏はひんやりとして、熱を持った身体には心地良い。
「それで朱里、ご主人様の容態はどうだ?」
「ハイ、骨には異常は無いみたいです。」
「そうか……良かった。」
 朱里の診たてに愛紗がほっと胸を撫で下ろす。
「一番酷い、顔の打撲も二、三日で腫れも引くでしょう。でも愛紗さん、鍛錬もほどほどにして下さいね。いくらご主人様が弱っちいからって、何もこんなになるまでしごかなくても……」
 朱里は改めて負傷した一刀を見る。その顔は目と口を残して、まるでミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされていた。
「う゛……それはだな……」
 言い淀む愛紗の目線は明後日の方を向いている。
と、乱暴に扉が開け放たれた。
「北郷一刀はいるかしら!?」
 いつものように断りも無し入って来たのは華琳。だが彼女には珍しく大股で部屋に上がり込む。
「曹操!貴様、虜囚の身でありながら、太守の部屋に勝手に上がるとは!それに警備の者はどうした!?」
「あら、関羽、怒った顔も素敵よ?やっぱりわたしのものになりなさいな。心配しなくても春蘭達が相手しているわ。」
「な、何だと!?」
「まぁまぁ愛紗落ち着いて。」
「しかし……」
 今にも華琳に青龍偃月刀の矛先を向け兼ねない愛紗を宥める。
「それで華琳、今日は何の用?」
「……誰よ、あなた。わたしの真名を呼ぶなんていい度胸ね」
 部屋に入ってきた時から機嫌が悪そうだったが、今度は華琳が今にも刃を振るいそうな形相で一刀を睨んだ。
「待て待て待て待て!俺だ、俺!」
「……孟卓?」
「って誰だよ!?」
「愚かにもこのわたしを裏切ろうとしたクズよ。顔が良かったからそばに置いてやったのにその恩も忘れて……顔面に酸をぶっ掛けてやったわ。」
「恐っ!!」
「ただいまなのだ!」
「鈴々。」
「うわ!どうしたのだ、お兄ちゃん!?その顔!」
 鈴々が驚きの表情で部屋に入ってきた。
「『お兄ちゃん』?……ん〜〜〜〜〜」
 鈴々の言葉に華琳はもう一度ゆっくりと、下から上まで包帯男を眺める。
「あなた、もしかして北郷一刀!?」
 どうやら、華琳は本気で気付いていなかったようである。
「いや〜愛紗にみっちりしごかれてね。」
 一刀が意味深に答えると、二人の視線は愛紗へと向けられた。
「あ、いや、その……」
「愛紗〜最近、お兄ちゃんが華琳達と仲が良いからって八つ当たりはよくないのだ。」
「な!?そ、そんなんじゃないぞ、鈴々!これはだな……ご、ご主人様に少しでも強くあって欲しいという臣下としての願いであって、けっしてそのような嫉妬からではなく……」
「ヤキモチやいてくれるのは嬉しいけど、今度からはもう少しお手柔らかに頼むよ、愛紗。」
「歪んだ愛情表現なのだ。」
「ですね〜」
 無慈悲にも愛紗の言い訳に耳を貸す者はその場には居なかった。
「そ・ん・な・こ・と・よ・り・も!北郷一刀!!この国の警備はどうなっているのかしら!?」
 不意に華琳がビシっと一刀を指さした。
「何だ?何だ?」
「聞けば、ここ最近、街道で賊がはびこっているらしいじゃない。まったく……太守が能天気なら憲兵までちゃらんぽらんのようね!」
と、一気にまくし立てる華琳だが、一刀の頭には疑問符が浮かぶばかり。
 今日、彼女たちは城下へと買い物へ行ったはずである。それがどうしてこの国の警備云々の話に繋がるのだろうか。
 そもそも何故、華琳はこんなにも機嫌が悪いのだろう。いつもなら口では散々文句を言いながらも市へ繰り出せば、機嫌良く帰ってくるのに今日はどうやら本気でご立腹の様子だ。
「き、貴様!ご主人様とこの蜀の国をバカにするとは!?許さん!!」
「残念ながら事実よ!今日も商人が一人被害に遭ったそうよ!」
「ウソ!?」
 首を傾げる一刀にますます華琳の眉はますますつり上がり、それに比例して愛紗のボルテージも上がっていく。この悪循環を打破しようと、一刀は朱里に助けを求めた。
「……はい、実はそういった陳情が数日前から寄せられています。」
 朱里の話によれば、ここ最近、近くの街道で商隊が襲われるという事件が頻発しているそうだ。賊は集団で剣や槍で行商人を脅し、荷を奪っていくという。
「今は表面化していませんが、噂が広まれば、確実に流通が滞ります。それに今でこそ怪我で済んでいますが、いずれ死者が出ないとも限りません。」
「フム。」
 一通り話を聞くと、一刀は腕を組んだ。
「憲兵さん達に見回りの強化をしてもらってはいるんですが、馬を持っているらしく、未だに隠れ家も分からないんです。」
 申し訳なさそうに朱里が付け足した。
「大きな商隊には用心棒も居るだろうに……馬といい、単なる野盗にしては随分手際がいいな。」
「確かに。」
 愛紗の指摘ももっともである。
「ちなみに星さんが楽しみにしていたメンマも被害にあって、今ちょっとアブナイ状態です。」
「げっ!」
 一刀と鈴々の顔が同時に青ざめる。
「……それにわたしの春本。」
「どうした朱里?」
 愛紗が不思議そうな顔で覗き込んだ。
「い、いえ、な、何でもありません!」
 朱里は慌てて言い繕う。
「そこでどうでしょうか。これ以上被害が拡大しないうちに討伐隊を出しましょう!」
「だけどアジトが分からないんだろ?まさか街道全部を張り込む訳にもいかないだろうし……」
 そんなことになれば大軍が必要である。それこそ、野盗なんて裸足で逃げ出すだろうが、せっかく手に入れた平和がまた剣呑な雰囲気に変わってしまう。
「でも、このまま星を放っておくと、きっとタイヘンな事なるのだ。」
 鈴々の言葉に以前、彼女の秘蔵のメンマを盗み食いしたのがバレた時の恐怖が蘇り身を震わせる一刀。
「任せてください!この諸葛孔明に秘中の策があります!」
「おお!さすがは朱里なのだ!」
「ふふふ、これはあまりにも悪逆非道で正々堂々真っ向勝負を善しとする我が軍の戦においては未だ使ったことの無かったとっておきなのです!!」
「いつもながら頼もしいぞ、朱里!」
「む、姦計は好かんが……相手は民草を襲う蛮奴。是非も無いか……」
「大戦を征した諸葛孔明の秘策とやらにはわたしも興味があるわね。」
「……終了間際に畳み掛けてようやく落とした稀覯本、絶対に取り返します。」
 盛り上がる皆をよそに朱里がボソリと呟く。
「ん?何か言ったか?」
「い、いえ何でもないですよ?」
 そう言って笑顔を向ける朱里に一刀は慮外の戦慄を覚えるのだった。



 黄土に刻まれた深い轍はゆるやかな弧を描いて彼方へと走る。
 斜陽が照らす街道に二台の馬車。
 荷台には穀類や干し肉、そして酒樽が車軸を軋ませるほどに積まれている。
 それはここ最近、何かと物騒な事件が絶えないこの一帯では珍しい光景だった。
 遥かに霞む山端に陽が隠れ、伸びた影法師が踊る。
 それを踏みしめる六つの馬蹄。
 それに最初に気付いたのは商隊の用心棒。
 折り重なりあう馬のいななきと人の怒号と悲鳴。
 商隊は瞬く間に賊に囲まれてしまった。
 三人の賊は手に手に剣や槍を持ち、更には甲冑を身に纏っている。
 怯える商人をよそに用心棒は果敢にも剣を抜き放ち啖呵を切った。
「何者だ、貴様ら!この荷車を太守・北郷一刀様の御物と知っての狼藉であろうな!?」
 しかし、野盗は怯まず、それどころか薄ら笑いを浮かべている。
「ソイツは大層金目のモンが積んでありそうだな?」
「な、何だと!?」
 太守の名を出せば、怖気付くかと思ったのだが当てが外れて、逆に用心棒の方が尻込みしてしまう。
「太守が恐くて野盗なんてやってられるかってんだ!!」
「おい、さっさとやっちまえ!!」
 リーダー格の男がそう言うと、賊はその方位を一気に狭めた。
「お、おりゃああああ!」
 用心棒がリーダー格の男へと斬りかかったが、既に心の折れた刃はその身に届くことが無く、逆に弾かれてしまう。
「ぐわ!」
と、宙を舞ったその剣が荷台を牽いていた馬の足元に突き刺さる。
「ヒヒィィィィィンン!!!」
 馬は一度前足で空を蹴ると、暴れるように駆け出した。
「うわぁ!」
「クソ!一台だけでも押さえろ!!」
 茜色の空、砂塵が舞い上がり、野盗の包囲網が一瞬、崩れる。
 その隙に商人と用心棒はその場から一目散に逃げ出した。
「あ、おいこら待て!!」
 野盗の一人が気付いた頃には彼らは暴走した馬車と共に薄闇の中に消え去っていた。
「ちっ……まぁいい、なんせ太守サマの荷だ。一台でも相当な値打ちモンだぜ。」
「食いモンや酒樽が一杯だ!」
「今夜は宴だな!!」
 荷台をざっと見回して喜ぶ男達。
「おい!憲兵が来る前にずらかるぞ!」
「「おう!!」」
 野盗達は馬車と共に荒野を後にした。


「……外、静かになったな。」
 一刀は暗闇の中で囁いた。
「ちょっと……何で王者たるわたしがこんな狭っ苦しいトコに押し込まれなきゃいけないのかしら?」
 くぐもった華琳の声が隣から聞こえる。
「一応、俺も太守なんだけど……」
「ちょっと、ちゃらんぽらんなあなたとわたしを同列に扱わないでちょうだい」
 荷台の奥で樽同士がぶつかり、音をたてた。
「おい華琳、静かにしていないと見つかるぞ。」
「わ、分かっているわよ、そんなこと……」
 再び小声で話す一刀と華琳。どうやら外の野盗達には気付かれていないようだ。
「だいたい、討伐隊に参加するって言い出したのはは華琳の方じゃないか」
「当然よ。わたしの物はわたしの手で取り返すわ。それもたっぷりとお釣りを付けてね。」
 顔は見えないが、一刀には華琳が暗い笑みを浮かべたのが分かった。
 そして今一度、朱里の明かした作戦を思い出す。

「まず、荷馬車を手配します。積荷はそうですね……手のつけ易い、食糧なんかがいいでしょう。その際、荷物の中に何人か紛れ込んで貰います。そして賊が現れたら、商人さんや用心棒の人には過度な抵抗しないでもらい、馬車ごと賊にくれてやるのです。」
「なるほど。後は賊が勝手に隠れ家まで案内してくれるという寸法か……」
「その通りです。他の人はこっそり後をつけて、アジトに着いたら、挟撃して一網打尽です!!」
「……ふふっ、何でしたら食糧に一服盛ってもいいかも知れませんね〜 ふふふ……」

 最後の方はよく聞き取れず、妙に朱里の笑顔が印象的だったが、策としては悪く無いように思う。
「だからといって、何もわたしが潜入班じゃなくてもいい気がするのだけど?」
 小声だが、まだ不機嫌そうな声音で華琳がに話しかけた。
「まぁ、ほら……そりゃあ春蘭や秋蘭じゃこんな狭い中で膝を抱えて座るのはタイヘンだからなぁ……」
 二人の一部ふくよかな肢体を思い出しながら答える。
「その点、華琳は全然余裕じゃん?」
「ぶ、ぶっ殺すわよ!?この馬鹿!!」
 再び酒樽がぶつかった。


 一方、遠くで商隊の様子を見ていた春蘭と秋蘭、それに朱里は半ばパニック状態に陥っていた。
 朱里の思惑通り、商隊が件の野盗と思われる一味に襲われるまでは良かったのだが、予想外の出来事が起こってしまったのだ。
「はわわ、ご主人様の馬車が暴走しちゃいました!」
「何ぃ!?あれには華琳様も乗っておられるのだぞ!!今すぐお助けに行かねば!!」
 今すぐにでも追い駆けようとする、春蘭を秋蘭が押し留める。
「姉者、落ち着け。ここからではあれが華琳様と北郷殿の馬車なのかどうか分からん。」
 彼我の距離は四半里ほどもあり、辺りは濃紺に染まりつつあった。
「そ、そうです!秋蘭さんの言う通り。もしかしたら愛紗さんと鈴々ちゃんの馬車かもしれません。」
 あの二人ならよほどの事でも大事無いだろう。
「だが、それも推論に過ぎぬのだろう!?」
「た、確かに……確率は二分の一……蓋は空けてみるまで分かりません。」
「とにかくわたしはあの暴走馬車を追い駆ける!」
「待て、姉者。」
 再び秋蘭が進路を塞ぐ。
「そこを退け、秋蘭!お前は華琳様が心配じゃないのか!?」
「私とて、華琳様の身を案じている。姉者の気持ちも十分理解しているよ。だが、目的を忘れるようなことを華琳様がお許しになると思うか?」
 そう告げた秋蘭を見て春蘭は息を呑んだ。
 眉間は深い皺を刻み、噛み締めた唇からは血が流れていた。
「秋蘭、お前……す、すまん。華琳様への忠誠を疑うようなことを言って。」
 沸騰していた春蘭の熱が和らいだ。
「分かってくれればいい……朱里、お前も北郷軍の軍師ならいつまでも取り乱していないで……ん?」
「朱里、どうかしたのか?」
 見ると、朱里は声にこそ出さないものの、それがより混乱ぶりを物語っている。
「ば、馬車を見失っちゃいました!」
「な、何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!?」
 荒野に春蘭の絶叫がこだました。



「……ん?馬車が止まった?」
 それまでずっと感じていた震動が止んだ。
「どうやら隠れ家に着いたようね。」
「よし、出るぞ……って、アレ?」
 一刀が樽の蓋を中から開けようとしたが、全く持ち上がらない。
「うぬぬぬぬ……っ!ダメだ。開かない。」
「ちょっと一刀、あなた非力にも程があるわよ?」
 華琳の呆れた声が聞こえる。だがどう頑張っても、蓋はまるで楔を刺したようにびくともしない。
「すぐに中から出られるように、蓋を被せただけなんだからこんなもの簡単に……フン!……あら?」
どうやら華琳の樽も同様に開かないらしい。
「ふぬぬぬぬぬぬ……ちょっと!どういうことよ、これは!?」
「と、言われてもなぁ……蓋をしたのは春蘭だし。」

『わたしが責任を持って、しっかりと閉めさせていただきます!』
 自信満々にそう言った春蘭の笑顔を思い出す。

「……あんの、おバカ!責木までしたら意味無いじゃない!?」
「ん?さっきからやけに積荷が音をたてないか?」
「こんだけ積んでありゃ、軋みもするさ。」
「一応、調べてみる。」
 外から野盗たちの会話が聞こえた。
「ヤバ……」
「しっ!」
「よっこらせと……」
 荷台が軋んだ。
 コツとコツという足音に同調するように、心臓が跳ねる。
「おっ!」
「!?」
 一刀は一際大きく跳ねた心臓が口から飛び出るように感じた。
「酒樽だ……ちょっくら味見しとくか」
 板越しに野盗の指先を感じる。
(クソ、もうダメか?)
 一か八か、蓋が開いた隙に殴れるように一刀が拳を固めた瞬間、
「おーっほっほっほ!」
と、場違いな高笑いが響いた。
「な、何だ!?」
 気配は慌てて遠ざかっていく。
(た、助かったぁ〜〜〜でも、どっかで聞いたことのある笑い声だったな)
 一刀は随分と久しぶりに息をしたように感じた。
「今のうちに脱出するわよ!?」
「お、おう!でもどうやって?」
「こうなったら仕方ないわね!このままで行くわよ!?」
 蓋が開かない以上、それしかない。このままここに居てはいつまた盗賊達が戻ってくるとも限らないのだ。後はもう一台の馬車に居る関羽達に任せるしかなかった。
「こ、このままって、マジか!?」
「大マジよ!喋っていると、下噛むわよ!」
 言うが速いか二つの酒樽は荷台の後から転げ落ちると、そのまま転がっていった。


「何モンだい、ネエちゃんたち?」
 手に武器を持ち、突然の闖入者を囲む野盗の数は十あまり。
 それに対して渦中の三人組は金の甲冑を篝火に煌かせながら、マイペースに話を進める。
「おーっほっほっほ!文醜さん、顔良さん、ほらわたくしの言ったとおりでしょう。御覧なさい、原住民の方がいますわ。きっと財宝を守っているに違いありません!」
 真ん中の女が纏う甲冑にも劣らない輝きを持つ金の巻き毛を揺らし、声高に宣言する。
「おーおー、確かに貧相な装備だな。」
 もう一人はその横で好戦的な笑みを浮かべて野盗たちを眺めていた。
「でも、文ちゃん。わたしあの髑髏の甲冑、凄くよく見たことある気がするんだけどなぁ……」
 最後の一人はひどく言い難そうに告げたが、二人がそれを聞き止めることは無かった。



「うわぁぁぁぁぁぁぁあぁあぁぁあぁあぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 天地が高速で回転していた。
 最初に勢いをつけ過ぎた所為で樽は止まる事無く、転がり続ける。
 視界に走馬灯が見え始めた頃、容赦の無い地獄車は派手な衝撃と音響と共に終わりを告げた。
「イつつつ……」
 未だに揺れ続ける視界で辺りを見回すと、薄闇の中で篝火の作り出す影絵が岩の壁や天井に踊っていた。そこはどうやら洞穴の内部のようだ。転がり続けた樽が奥壁にぶつかり、奇しくも脱出できたようである。
「痛〜〜〜〜」
 壊れた木片を退け、華琳が姿を現す。
「大丈夫か、華琳?」
「ぜんっぜん、大丈夫じゃないわよ、まったく!」
 ようやく平衡感覚を取り戻した一刀は立ち上がり改めて周囲を見回す。
「あ!華琳、ほらコレ、コレ!」
「今度は何?」
 疲れた声で華琳が振り向くと、一刀が茶葉の包みを掲げていた。見れば、奥には反物や食器や武具といった品々が堆く積まれている。恐らく強奪された物違いない。
 華琳も立ち上がろうとしたが、
「痛っ!」
と、再び地面へと崩れ下る。
「大丈夫か華琳?」
「転がっているうちに挫いただけよ。」
 駆け寄ろうとした一刀の顔が強張る。
「華琳、危ない!!」
「きゃっ!」
 一刀に身体ごと引き寄せられる。刹那、背後で大気が音をたてた。
「もぅ、何!?……って、放しなさい!馬鹿!!」
 期せずして、一刀に抱きとめられるような形となった華琳は慌てて、腕を振り解こうとする。
 だが一刀はそれを無視して背後を睨みつけた。
「……な!?」
 振り返れば、そこには剣を手にした男が一人。
「これは、これは……曹操サマではないですか。」
 華琳を見た男は薄ら笑いを口元に貼り付けた。
「……あなた、敗残兵ね?」
「いかにも。北郷軍との戦において何度も敗れ、挙句に邪教の徒に傀儡にされた魏の元一兵卒にございます。」
 男は口許を三日月型に歪めたまま、肩膝を着いて頭を垂れた。
「……いいでしょう。その喧嘩、高く買ってあげるわ。」
「華琳……」
 踏み出す華琳を押し留める。
「放しなさい、一刀!この慇懃無礼なサルに礼というものを説いてやるのだから。」
 最早足の痛みなど、どこかへといってしまった。
「一刀?……貴様が北郷一刀か?」
 立ち上がった男は驚いたように今度は一刀の顔を覗く。だが、すぐに例の軽薄な笑みを浮かべた。
「……なるほど。兵の命を毛ほどにも感じていない曹操サマもやはり自分のお命は惜しかったと見える。魏の王として往生されるより、北郷に飼われる事を選んだようですな。」
「……何ですって?」
 怒気が音となって空気を震わせた。華琳の双眸は大きく見開かれる。相手を睨め殺すことも叶いそうな視線を受けながらも、その表情を崩さなかった男は驚嘆に値するだろう。
「華琳サマのお味はいかがでしたかな、北郷殿?」
 最早制止も聞かずに、男に掴みかかろうとした寸前で、一刀が口を開いた。
「華琳、ちょっと待ってて。」
 そう言って、華琳を床に座らせた一刀の顔は華琳がかつて見たことの無いもの。
「確かに君主の采配一つで死地へと送りされる兵の気持ちには同情する。出来るだけそういう人たちのの家族や心意気を守ってやりたいとも思う。」
 一歩、二歩と進み、華琳を背後に庇うように男と対峙する。
「だけど、罪の無い人に八つ当たりするお前のようなヤツにその名を汚す資格は無い!!」
 同時に腰に佩いた太刀を抜き放った。磨かれた刀身が怒りを孕んだその表情を映し出す。
「フン、俺とてこんな不遇に落とし込んだ元凶共を生かしておく心算は毛頭無い!!」
 迎える刀剣は凛とした鋭さを放ち、一兵卒が持つにして上等である。
「あの剣は……」
 華琳はその宝剣に見覚えがあった。
(せめて華琳だけでも逃がしたいけど、出口はアイツの向こう側……鍔迫り合いに持ち込むか?)
 一刀は一瞬浮かんだ考えを即座に打ち消す。彼我の膂力を鑑みれば、一刀が稼げる時間など瞬きの間すらない。おまけに華琳は足を挫いているのだ。
(やっぱり、隙を突いて連れ出すしかないか……)
 そうと決まればと、一刀は正眼よりやや刀身を立て、構えを取る。
 思えば、一刀はどこか懐かしい感覚に囚われていた。心は男に対する憤怒を燃やしているのに、頭は妙に冷静に状況を把握している。それは剣道の試合に似ていた。目前の相手を倒したいという闘争心に任せて太刀を振るえば、有効打突にはならない。故に、頭は常に冷静に技を組む。その状況に今は酷似していた。あとは体がそれについてきてくれるかである。
「すぅ……」
 息吹の後、北郷一刀は文字通り、抜き身の刃となった。
「覚悟しろ北郷!てりゃあああああああああ!!」
 やや変則的な八相に構えた男が雄叫びを上げる。
 愛紗達に比べれば、その技は拙い。だが、実際の兵士としての腕力がそれを必殺の一撃へと昇華する。
 大気を殴り返しながら迫る豪剣は一刀の右胴、服を皮を裂いた。
「しぃっ!!」
 飛び散る火花と響く硬音。
 肉を断つ寸前、男の剣は一刀の太刀によって打ち落とされた。
 反動を利用して、足に力を込める。
「どぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
(浅い!!)
 斬心が警鐘を鳴らした。
 一刀の太刀は相手の右胴を捕らえていたが、甲冑に阻まれ、折れ曲がる。
「この野郎!」
「!?」
 一瞬、内臓が呼気を押し上げた。
 男は一刀を力任せに蹴り飛ばし、距離を取る。
「一刀!?」
「げほっ!げほっ!」
 床に転がった一刀は胃液を吐き出す。
(クッソ!やっぱりそうそう上手くはいかないもんだ)
 柄を手放さなかっただけでも一刀は自分に拍手を贈りたいぐらいだ。
 だが、折れ曲がった剣ではどうしようも無い。
 滲む視界には剣を拾う男の姿。そして……
「何を笑っている?とうとうおかしくなったか?」
 死に体にありながら、それでも一刀は笑った。
「いや、どうやら助かったみたいだ。」
 その言葉とほぼ同時に背後で鳴る弦の音。
「ぐあぁっ!!」
 右手は拾った剣を再び取り落とし、変わりに矢羽が生えていた。
「華琳様!」
「ご無事ですか!?」
「春蘭、秋蘭、二人とも遅いじゃない。後でお仕置きが必要ね。」
 華琳は二人を睨みつける。だが、それは先ほどとは別種のものだった。
「おいおい、助けに来てくれた二人に御挨拶だな。ありがとうマジ助かった。」
「ふん、あなたが普通に勝っていれば、何も問題は無かったのよ。ッントに使えないわね!ちょっと、臭いから近寄らないでちょうだい!」
 すっかりいつもの調子に戻った一刀はもう一度、胸を撫で下ろした。
「な、なにニヤニヤしてるのよ!?」
「華琳様、足を怪我されたのですか?」
 一刀とじゃれ合いながらも足を投げ出したまま、その場を動こうとしないのを秋蘭が見咎める。
「ええ、ちょっとね……」
 華琳は意味深に言葉を逃がし、痛いみに蹲る男を見た。
「キッサマァ!!逆賊の分際で華琳様に怪我を負わせるとは、万死でもまだ足りぬ!!」
「その血肉の一滴、骨身の一片まで閻魔に献上しても贖えぬと知れ!!」
 華琳は魏の武を支えた両雄が久しぶりに甦るのを感じる。
「ひ、ひぃぃぃ!ち、ちが――」
 断末魔の叫びも二人の猛勇の気合によって掻き消されたのだった。


 
 柔らかな日差しが射す、うららかな午後。一刀は散歩へと出かける。
 出入りの商人達を震え上がらせた野盗事件も一件落着し、数日が経っていた。
「世は並べて事も無し、か……」
 不意に槌を振るう音が聞こえてきた。
「何だこりゃ?」
 見れば、華琳の酒蔵の横に組まれた同じような骨組み。その周りで人夫が忙しなく働いている。
「あら、一刀ちょうどいいところに。」
 呆然とその光景を眺めていた一刀に華琳が声をかけた。
「……華琳さん、コレは何でしょうか?」
「二号倉よ。」
 さも当然というように華琳が答える。
「……今度は味噌でも作るのか?」
「不正解。お酒の出来が良いから、規模を拡張するのよ。」
「はぁ……」
 近い将来、城内が酒蔵で埋まるような光景を想像して、軽い眩暈を覚えた。
「そんな顔しなくても、一山当てたら場所代ぐらい払うわよ。ちょうどしばらくは無給・無休で働いてくれる無職の人夫が何人も入ったことだし。期待しといてしょうだい。」
 言われてみれば、汗だくになって働く人達の中には見覚えのある顔が何人も居る。それは例の野盗事件で無抵抗のうちに捕まった人であった。
 以前の華琳ならその場で首を撥ねそうなものだが、彼女なりに思うところがあったのかも知れない。
「な、何よ!?ニヤニヤして気持ち悪いわね!!」
「いや〜別に?」
「そ、それより、ハイ、これ。」
 華琳は無理矢理話題を変えると、一刀にある物を押し付けた。
「これは……」
 渡されたのは一振の剣。鞘から抜けば、凛とした鋭さを湛えた刀身が陽光を反射する。
「青スの剣……魏の宝剣よ。戦時のどさくさで失くしたかと思えば、まさか持ち逃げされていたなんてね。」
「華琳……」
 一刀がどう声をかけようかと、考えあぐねていると、
「あげるわ。」
と、まるで菓子を分け与えるような気軽さで華琳が口にした。
「え?」
「だってもう、わたしには必要ないもの。」
 風が二人の間を吹き抜ける。清々しそうな華琳の横顔に一刀の心は震えた。
「それに、あんなサルが触った物なんて側に置いておきたくないもの!それにアナタも君主なららしい物を佩いときなさい……って、何人の顔見てるのよ!?」
「あ、いや……華琳からはこれで三つも貰っちゃったなって。」
 一刀は照れ隠しにそう答える。
「三つ?青スの剣でしょ、国璽でしょ、領地は……国璽と一緒よね。何よ三つって?」
 指折り数える、華琳に一刀がそっと耳打ちした。
 すると、みるみるうちに華琳の頬が朱に染まる。
「ば、バージンって!バッカじゃないの!?これ以上馬鹿なこと言うと、殺すわよ!!」
「おっと!」
 華琳の平手をかわすと、一刀はその場を後にする。
槌を振るう音に一刀の笑い声と華琳の怒声が協和した。

(あれ?……そう言えば、何か忘れているような……?)



「愛紗〜〜ここはドコなのだぁ?」
 馬車がようやく止まり、やっと樽から出られたと思ったら、そこは見知らぬ別世界。
茶色い砂塵が舞う中、見たことも無い半球状の建物が目に付く。道行く人は、布面積の小さい、ゆったりとした衣服を身に纏い、頭に大きな帽子のような物を乗せている。
「むむ、何と面妖な……だがいかにも怪しい出立ち。件の賊に違いない!ゆくぞ鈴々!!」
「むぅ……それより鈴々はお腹が空いたのだ。」
ここまでの道程で荷台に積まれた食糧は食い尽くしてしまっていた。
「情け無いぞ、鈴々!わたしだって喉がカラカラだ。だが民草のため、ひいてはご主人様のためにもにっくき、蛮奴どもを懲らしめるぞ!!」
「あれ?何か落ちているのだ。」
 半ば砂に埋もれていたそれを鈴々が目ざとく見つけた。
「何!?食糧か!?水か!?」
 愛紗が手元を覗き込む。
 それは金属で出来た、茶器のような代物だった。
「ん〜何かでないかな〜?」
逆さにしたり、叩いたり、擦ってみたりと、いろいろ試してみる。
「うわ!!」
「何だ!?」
 不意に桃色の煙が注ぎ口から噴出した。
 驚いて鈴々が器を取り落としてもなお出続け、二人の周囲を覆う。
「うわわわ!」
「敵の罠か!?小癪な……」
 二人は背中合わせに武器を構える。
束の間の後、煙が晴れ、そこに現れたのは意外な人物であった。
「「貂蝉!!」」
 二人は同時に叫んだ。ひくつく大胸筋。動く度に盛り上がる上腕二頭筋。のみで削ったかのような腹直筋。筋肉の甲冑の上に股間だけ申し訳程度に布を纏った禿頭の怪物など二人は一体しか知らない。いや、むしろこの世に二つと存在してはいけない気がする。
「あらん!とってもカワイらしいおチビちゃん、コンニーチハー♪でもアタシは貂蝉なんて名前じゃないわぁ!」
 投げキッスと共に放たれた妙に愛らしく、けれど野太い声によって全人類の希望は打ち砕かれた。
「じゃあなんて名前なのだ?鈴々は鈴々なのだ!」
「ウフン!アタシはルァンプの精♪……もっとも、アナタ達の溢れるリビドーとは字が違うわよん。アタシは妖精……そう、可憐に宙を舞うフェアリーなのよ〜〜」
 フェアリーは火口から煙のように身体を伸ばして、宙を回る。
「ふわ〜お兄ちゃんよりヘンな名前なのだ。」
「アン!ひどいわん!」
「ひぃ!」
 急にアップで迫られ、愛紗が短い悲鳴を上げた。
「さて、145235時間と32分53秒……平たく言うと、ずんご〜く久しぶりのマスターちゃん♪アナタ達の望みは何か知らん!」
「ご、ご主人様〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜」
遥かな絹の道、異国の地に愛紗の声がこだました………